6月22日(金)
早いもので今年ももう折り返し地点が近づいています。

この間、2012年が明けたと思っていたのに。

台風の被害は大丈夫だったでしょうか。
6月に台風だなんて、もうみんな異常気象にも慣れて
いるので、驚きもしないってところでしょうか。

あるところで、天に届くような高い塔を作った年に
水に関する被害があると読みました。

京都タワー、東京タワーを作った年にやはり
台風の被害がひどかったそうです。

聖書にバベルの塔の話がありますが、
人間が神と並ぶのだという奢りの心で
天にも届くようなバベルの塔を作った時、
神は怒って、人類を多民族、多言語に分かち、
言葉を通じなくさせたそうです。

今年はスカイツリーが完成した年。

そうでなくても、何かが起こると言われている2012年なのに
こんなところにも、要因があるのでしょうか。

とにかく災害には要注意です。


先月の土曜日に娘の学校で運動会がありましたが、
よく晴れ渡ったその日、娘の幼い頃からの仲良しの
親子とお弁当を食べました。

その家のおばあちゃんも参加して、お友達のご両親は
仲よさそうに運動会を見ていました。

次の日は日曜日を利用して、そのお友達と何人かで
朝からディズニーランドへ行くので、
そのお父さんが代表して子供たちを引率してくださることに
なっていました。

お母さんは、行きの車中で食べる朝ごはんのおにぎりを
人数分、作る係を自分から引き受けてくれていました。

ところが、夜中に電話が鳴って、
そのお母さんがおにぎりを作れなくなったと言うのです。

しかも、周囲は賑やかな音がしていたので、
私は直観的に「家を出たの?」と聞きました。

「そう」という返事。

おにぎりは私が代わりに握り、翌朝持って行きましたが
お父さんも娘さんも表面では笑顔を浮かべ、
予定通りディズニーランドへ出かけていきました。

今、もう気づくと1か月以上たっていますが、
彼女はまだ帰って来ていません。

家庭内にいろいろな理由があったようです。

もしかしたら、ずっと彼女はそれを企てていたのかも
しれません。

ある日突然、家庭や子供を捨てて、知らない土地で
新しい人生を始める。
…そんな願望が心の中をまったくよぎったことのない
妻、母がこの世にいるでしょうか。

でも、ちらりと思ってから「なんちゃって」と否定するのと
実行に移すのでは、天と地の差があります。

私は何度か考え直してもらおうと
彼女の娘さんの写真を送りつけたりもしました。

でも、そんな私の行動は、まるで金魚すくいのように
水面をなでていただけで、
彼女の心に広がっていたのはまるで底なし沼のような
真っ黒な闇だったのです。

それに気が付いた時、私は寒気がして、
いっさいの語りかけをやめてしまいました。

自分の行動が情けなく、恥ずかしくもあり、
無力感に襲われたのです。

今、彼女はどうしているのでしょうか。

謝って帰って来るなら、きっと家族は許してくれるのでは
ないでしょうか。

娘さんの気持ちを思うと、胸が痛くなります。



6月6日(水)
先日、宮城県石巻市に行ってまいりました。
漫画家の石ノ森章太郎さんの故郷です。
震災が起きた時、ネットを通じて
何回か支援物資を送った場所でもありました。

ある仕事の都合で、被災地を訪れる必要を感じ、
震災が起きてから、自分で実際に赴き、
かの地をこの目で見る機会を窺いつつも
なんとなく勇気が出なかったのが、ここに来て
ついに背中を押されてしまったのです。

とは言え、被災地もさすがにがれきなどはずいぶん
片付き、復興に向かっている様子で、
どこに何をしに行けばいいのか皆目分からない始末。

ふらふらと、まるでただの観光客のりで行ったのが
石巻でした。

それでも、東京世田谷からたどり着くには結構な
時間がかかります。

仙台には地方公演で行ったことがあり、
見覚えのある駅の風景でした。
そこから仙石線に乗り換えますが、途中まだ線路が
復旧していないため、松島海岸で降りて代行バスを
利用しなくてはなりません。

「松島や ああ松島や 松島や」
小6になる娘に「へんな歌〜」と言われてしまう句。
その絶景のあまりに芭蕉も言葉が出なかったという、
舞台となる有名な海岸ですが、
初めてなのでゆっくり観光したい気持ちを抑えて
バスからちらりと見るだけにとどめます。

穏やかな初夏の日曜日でしたが、
観光客はそれほど多いとは言えません。

石巻に至っては、観光客はほとんどちらほら。
日曜日だからなのか、メインの漫画ロードでさえ、
店のシャッターは閉まっています。

そして時々、住めなくなってそのままにしてある建物や
それも取り壊して更地になったままの土地。

プレハブの長屋に商店や美容室などを集めて
協同で営業しているところがありました。

パン屋のおかみさんは、自分の元の店に大きな船が
突っ込んで来たという写真を見せてくれて、
警報を聞いてとにかく逃げに逃げたという話を
聞かせてくれました。

石巻は漁業で営んでいる港町であり、海辺にも
街並みが開けていたはずですが、2000人以上もの
方が亡くなったところです。

しかし、私はパン屋のおかみさんの話を聞きながらも
まだそんなことが信じられず、
次に入った喫茶店でも同じように話しかけたのでした。

そしてコーヒーを淹れながら、重い口をいやいや開く
おばさんの姿を見て、はっと我に返るのです。

この人々は、こうして物見遊山でカメラを片手に
震災の傷跡を見ようとやってくる観光客がさぞかし
うっとおしいに違いない。

私のように、ぶしつけに被害の度合いを聞いてくる
人たち。
自分は遠い所に住んでいて、震災なんてテレビでしか
見ていない、家族も元気で暮らしている、
無関係な人たち。

それでも、そういう人たちが数多くやって来て、
お金を落として行ってくれるなら、と我慢もするのでしょう。

私は正直に映画のために、と話しました。
「見ないではできないと思って」と。

すると当然のように「そりゃそうですね。」と返って
きました。
その言葉に「そう簡単に分かってたまるか」という
思いが含まれているのも感じました。

最近牡鹿半島にボランティアに行った友人も、そこで
「震災を扱ったものは見たくない」という話を聞いたそう
です。

私はいよいよ「半端なものは作っちゃいけない」と
思いました。
今まさに自分が踏んでいる土の上で、誰かがもがき
苦しんで波に飲まれていったのかもしれないのです。
わずか1年ちょっと前に。

喫茶店のおばさんが最後に教えてくれた場所は
震災の時、避難場所となった高台の日和山公園でした。

てっぺんまで上ると海が見渡せて、すぐ横に北上川が
流れ込んでいます。

すぐ下の小学校が一時避難場所となったらしいのですが、
押し寄せてきた車と車がぶつかって炎上し、
火事になったので子供たちはまるごとこの公園に
上ってきたということです。

ちょうどそこから見えるところに
震災前の市内の写真が張られていて、
震災後の同じ場所が変わり果てているのが一目瞭然です。

今はきらきら光るあの美しい海が
その時どんな形相を見せたのか
よそ者の私には想像もつきません。

震災後の春にも同じように桜が咲いた、とテレビのニュースで
やっていたその緑多い公園は、
その昔、芭蕉も石川啄木も宮沢賢治も斉藤茂吉も
そこに立って、思わず美しい眺めに歌を詠んだという
素晴らしくきれいな場所です。

「石巻っていいところね」
観光で来ている女性が一言、言ったのが印象的でした。


5月21日(月)
いい季節です。
新緑が薫るようなこの季節に身をゆだねようと
できる限り、戸外に出て体を動かしています。

今年の夏は冷夏だと予言している人がいます。

昨今の地震、雷、突風、竜巻、大雨やひょうなどの
自然災害のことを考えれば、
夏が寒くなっても、逆に激しく暑くなってもおかしくありません。

夏が過ごしにくく、いつもの夏の楽しみが得られなくても
構わないと思えるように、今、思いきり与えられた好天気を
楽しもうと思うのです。

日が落ちても寒くない、素敵な夕暮れを楽しみながら、
こんなふうに涼やかな風に吹かれたり、
甘い花の匂いをかいだりできるのは
なんて幸せなんだろうと思います。

幸せはまさに今ここにある。
そのことに気づかされる毎日です。

ごはんが食べられること。
家族がいること。
やるべき何かがあること。

私の携帯に毎朝届く福島正伸さんのメルマガには
いつも元気づけられる一言があります。
たとえば、

「言葉は選べる
行動も選べる
変わるのは簡単でしょ」

上の一言は記憶があいまいで、その通りでなかったかも
しれません。

でも、いつもつい使ってしまう言葉、
ついやってしまう行動を思い切ってやめて、
尊敬するあの人のようにしてみたら
人生は変わる、という大意だと思っています。

最近読んだ教育についての本の中に
「〜しなさい」「やめなさい」を一切子供に言わないように
してみたら子供が変わる、とありました。

それはそうかもしれない、やってみようと
子供に接し始めて1時間、つい使っている自分に
驚きました。

そもそも私は低学年まで子供に
「〜しなさい」と言わなかった母親でしたが
ある日何かがきっかけで、「しなさい」を使うように
なったことを覚えています。

使い始めたら便利だったので、今まで使っていました。
でも、言えば言うほど、自分のなってほしい状態から
遠ざかるのも分かっていました。

子供が2歳になった時に自分が「怒る」ようになったのも
覚えています。
それまでは赤ちゃんだからと我慢していたのが、
いわゆる「きれた」のをきっかけに
感情を爆発させることを覚えてしまったのですが、
その場ではためこまなくなっても、
状況はよくならないのも分かっていました。

獲得してしまった日常の性癖を変えるのは
ただ事ではありません。

私は片方の足が短いので、
歩き方の癖を直そうとしていますが、
これも並々ならぬことであることが分かりました。

しゃべり方、使う言葉、歩き方などは
長年の間に自分にしみついてなかなか離れない
ものです。

でも、自分を変えたいと思ったら
その馴れ合った言動とさよならする勇気、
そしてそれを維持する忍耐力が必要なのです。

変わりたい、と思っている方
お互いに頑張ってみませんか。


4月8日(日)
桜もいよいよ満開、と
よく晴れた日曜日の今日、
この時期になると、もう何年も前から通い続けている
世田谷の砧公園に行ってまいりました。

子供も大きくなって、片道30分の道のりを十分
自転車で漕ぐことができるようになったので、
運動も兼ねて家族でサイクリング。

しかし、目当ての公園が近くなってくると
人も車も急に増えて、
公園の中と言えば
かつて見たことのないほどの混みようでした。

あの広い敷地が見渡す限り、
人で溢れかえっているのです。

自転車を停める場所もない程の混雑の中、
ようやく敷物を敷けるスペースを見つけ、
お弁当を取り出します。

あっけに取られながら、お弁当をつまみ
周囲を眺めていると、
家族連れはもちろんのこと、大学のサークルのような
女子学生の輪や、老人会で楽しそうに歌う人たち、
それはもう種々雑多な集まりが
かつてゴルフ場だったという、広大な緑の芝の上に
座り込んでいるのでした。

ところが肝心の桜は、と言えば
実はこのところの寒さで、5分から7分咲きといった
程度です。

なのに、人々はビールを飲んだり、写真を撮ったり
子供たちは人とぶつかり合いながらキャッチボールに
バドミントンで、今日という日を逃すものかと
必死で遊んでいるように見えます。
すごい光景です。

この冬は特に寒くて、なかなか春がやってこなかった
せいもあるのでしょう。
また、昨年は大震災があったために
「お花見自粛」を余儀なくされて、発散しきれない
思いもあったのでしょう。

けれどこの有様は今年に限ったことではなく、
どうも私には昔から、
桜の季節には、日本人はいつも必死になるような気が
してなりません。

必死に飲む。
必死にしゃべる。
必死に花をめでる。

何故なのでしょう。

せみと同じで、一年のこの1週間だけの楽しみだから
でしょうか。
死ぬわけじゃあるまいに。

それでも1週間しか咲かない桜を前に
「刹那」を思い出すからなのかもしれません。

生きているその一瞬、
その刹那はもう二度とやってこないということを
思い出すからなのかもしれません。

人生は刹那。

桜の花びらのように一生懸命生きて、
燃え尽きて散りたいという願いが日本人の記憶の中に
眠っているのでしょうか。

震災から1年たった今、誰の中でも
これまでよりももっと、桜を慈しむ気持が強くなったように
思える今年のお花見でした。


3月7日(水)
日記どころか、月記に近くなってきました。

暇なようでいて、何かとざわつく毎日です。

きのうまで、お腹に来るウイルスにやられて
丸々3日も寝込んでしまいました。

夫婦二人とも殆ど同時刻に発症して、激しい嘔吐が
あったのに、子どもは一人ぴんぴんしていたので、
二人だけが食べたものにあたったのではないかと
疑いました。

実は数日前に何年かぶりで生食用のカキを買ってきて
食べたのです。

食中毒の可能性はそれしか見当たらなかったのですが、
病院に行くと、日にちがたっているからそうとも言い切れない
との診断。

結局、この手のウイルスは特定が難しいということで、
風邪の一種として治療を施されました。

それにしても、こんな病気は初めて。

3日間、ほとんど食べられず、体がぐったりして動けず
起き上がることもできないのに、横たわっているだけで
気持悪いのです。

世間には、病気でこんな思いを長くしている人も数多く
いるのかもしれないなあ、私だったら堪えられないなあ、と
ぼんやり考えてしまいました。

たとえば、癌にかかり、体中痛くてたまらないはずなのに
その末期にも、一言も「痛い」とおっしゃらなかったという、
尊敬する故・高橋康成先生。

私にはとてもできない芸当です。

たぶん、神様はできる人にしかそういう試練を与えない
でしょう。
だから、私はこれまで大病も大事故も、とりわけ悲しい
こともなく、すんでいるのかもしれません。
すまされているというか。

もうすぐ3月11日が来ます。

神様は堪えられる人にしか試練を与えない、という言葉では
済まされない大震災でしたが、
1年たって、それでも生きてこられたことの意味を
私たちももう一度考えてみるべきなのかもしれません。

そして来るべき3月11日にも、要注意!

食糧・水を確保して、大切な人との連絡方法を決めて、
そして日々、「愛」を振りまいて生きましょう。



2月10日(金)
被災地の方にとっては、やっと乗り越えてきた
過酷な道だったと思うと、まだまだ続く「震災後」に
思いをはせないわけには行きません。

最近、東京でも少しの「揺れ」がしょっちゅう起こってる
のでは、と感じます。
情報に神経質になっている部分もあるでしょうが、
ふとした瞬間に、小刻みに揺れているような気がするのです。

実は、日本の3・11もアメリカの9・11と質を同じくするもの、
という考え方があるらしく、
そこを辿っていくと、空恐ろしく、
将来の日本や身の周りを懸念せずにはいられません。

どうも、新聞・テレビなどで、「東海地震のおそれ」や
「首都圏大直下型地震」などの情報をよく見かけることや、
それと反比例して、小さな地震に携帯の地震情報が
反応しなくなっていること等、
メディアのさまざまな動きを見ていると
そこに覆い隠したい巨大な「嘘」と
それでも伝えたい、あるいは漏れてしまう「真実」が
見え隠れしているような気がするのです。

私たちはもはや、国や政治は守ってくれない、どころか
我々を見放す存在であるということに気がついています。

日本の国、いや世界全体が
嘘で固めた雪だるまになって、
坂道を転げ落ちていくようです。

2012年の傾斜はまた随分と激しくなり、
雪だるまの雪ならぬ泥はますます分厚くなっています。

自分で自分の身を、家族の身を
守らなければなりませんね。

防災の準備をするとともに
日頃から必死で生きるということが必要なんじゃないかと
思っています。
1月27日(金)
千秋楽の興奮から冷め、日常に戻ると
私の好きな「はじまりの1月」がそこにいました。

「一年の計は元旦にあり」と言いますが、
お正月はどうしてもただ新年が明けたという
いわば「イベント」で、騒がしく過ぎ去ってしまうものです。

普段見ないテレビを長時間見続けたり、
久々に会う親戚との会話に花を咲かせたり、
初詣に行っても、「頑張ります」くらいのことしか
誓えないものです。

だからというわけではありませんが、
昔から私は、冬休みも明けて、日常生活にいったん戻り
あらためて月半ばに今年の目標を掲げることが
多いのです。

以前1月15日と決まっていた成人の日の祝日は、
寒さもしんと深まって、
成人を迎える人がいない家にもなぜか
「今日から私も大人の仲間入りです。頑張ります」という
潔い決意と旅立ちの空気が漂うようで、
そんな日に新聞の特別欄をぼんやり見ながら、
今年の計画を立てるのが好きでした。

今年はその、かつて成人の日であった15日に
学生時代から続けてきた劇団の解散公演の千秋楽だった
というのも、何かの偶然かもしれません。

とてもじゃないけど、ものを考えられる環境では
ありませんでしたが、「決意」は持てました。

数週間前、紀伊国屋ホールの千秋楽でのコメントで
何故か「長野さん、女優辞めちゃうの?」と聞かれた
私です。

「年を取って元気だったら、もう一度会おう」=またいつか
一度きりの復活公演をしよう!という意味だったのですが、
そうとは取らない方がいたということでしょう。
(着ぐるみコメントでも「二度と…」と言ってましたしね)

でも、そう取られてもしかたのない何かあやふやなものが
私の中にあったのでは、と今になって省みるのです。

この公演で私は「プロであること」
「人間として上等であること」はどういうことかを
考えさせられました。

実は、仲間と離れて10年間、再結集した時に
私の誇れるものは何だろうと考えた時、
子育てをしたこと、トレランスをやったこと
つまり人を育てたり、ものを創ることに関して
頑張ってきたことが、演技に反映するはずだ、と
自信に近いものを持っていたんです。

でも、懐かしい古巣であるはずの劇団での稽古が
始まっても、どうも自分が伸びた気がしない、
ばかりか、演技をする不自由さを感じ、
楽しめないでいました。

何が足りないのか分かりませんでした。

でも本番が開けて、
ギャグやアドリブも落ち着いてきた頃、
やっと演技に集中することができ、
やっと今までやってきたことを少しずつ、この本で
つなげていくことができるように感じ始めたのです。

そして今年に入った頃、
改めて、芝居を、仕事をあなどってはいけない、と
強く思いました。

もちろん、あなどっていたつもりはありません。
私は私なりに与えられた環境と時間と役で
頑張っていたつもりです。

でも、「与えられた」ところでやっているだけでは
この世界と商売では、何のプラスも生み出せないと
いうことを改めて知ったのです。
そんなに甘い世界じゃないぞ、と。

それを私はまわりの仲間から教えられました。
もちろん、人それぞれですから、
遠回りして無駄足を踏んでいるように見えながら
ちゃんと核心をついている人、
淡々とこなしている(ように見える)人、
見た目にもあがいて頑張っている人、
頑張っているけど、少しずつしか進めない人など
本当に様々ですが、10年前と比べつつ、
相手のことはよく見えるのです。

そしてこの一週間で得た結論は、
「一から頑張らないと生きていけない」でした。

極論に達してしまったようですが、
何故か、若い頃からの自分の性格や癖も含めて
様々なことが思い出され、
今自分の求めているものに照らし合わせて考えると
実はまず
「性格から直さなきゃ!」ということになって
しまうんです。

こんな性格でやっていけるわけがない、と。

そう思うと、これまでの30年間はなんだったんだろうと
思うし、職変えした方がいいのではと思いますが、
気がついただけでも進歩だと思うことにして、
一からやっていこうと思っています。

体力も気力も若い時ほどありません。

でも、気づいた時がはじめ時、
やり直すのに遅すぎることはない、と考えて
役者人生、始めたいと思っています。

皆さん、(心の扉が)開けまして、おめでとうございます。

どうぞ今年からよろしくお願い致します。


1月17日(火)
第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」が
一昨日、博多で無事千秋楽を終えました。

11月26日から続いたこの公演に
駆けつけてくださった方々、応援してくださった方々、
またライブビューイングでご覧になった方々、
本当にありがとうございました。

舞台でのご挨拶でも述べましたが、
この公演は予想以上に、
最初からやっていて楽しく、幸せな舞台でした。

記者発表では、
何年たっても変わらない仲間とのやり取りに驚き、
稽古中は、それでも10年分の成長を果たしている
お互いの関係を楽しみ、
幕が開けると、まるで旧い友達に会いに来てくれたかの
ように見守ってくれる観客に感謝しながら、
嬉々として邪念なく舞台に立ち続けることが
出来ました。

そして、もう一つ。
母の仕事を邪魔しないくらい大きくなった娘と
妻の仕事を助けるべく、家事ができるようになった
夫が支えてくれたから、安心して専念することが
できました。

本当に皆さん、
ありがとう。
愛しています。

いつもそうつぶやきながら、オープニングのダンスを
始めました。

こんな幸せな気持ちにさせてくれる公演は
なかなかないと思います。
そんな舞台に立てただけでも私はラッキーでした。

まだまだ余韻に浸っていたいところですが、
千秋楽に「明日から羽ばたきます!」と宣言した私です。

新しい境地に向かって、うんと努力したいと思っています。

さあ、今年は女優業をもっともっと頑張るぞお。

どうぞ、皆さんよろしくお願い致します。


1月13日(金)
温かいカフェオレを飲みながら書いています。

最近私は、石原結實さんの「生姜力」を読み、
生姜の力を改めて知って、以前より力を入れて
生姜を摂るように努めています。

生姜紅茶も1〜2杯だったのを3〜4杯に、
料理にも思い切って多めに入れたり、
寝酒の日本酒にも入れてみました。

これが、出色!
生姜卵酒は、びっくりするほど美味しいですよ。
風邪をひきそうな時におすすめです。

さて、明日からいよいよ第三舞台解散公演、
最後の土地の福岡に参ります。

福岡の最終公演では、ライブビューイングと
言って、舞台中継を全国の映画館で
お見せするという離れ業も!

実はトレランス公演「アセンション日本」でも
同じことをやりたかったのですが、
やはり規模を大きく、人員を多く、いろいろな
団体を巻き込んで行なわないとこういうことは
うまく行きませんね。

第三舞台はおかげさまで、
どこの劇場でも満員御礼。
解散を惜しまれながらの舞台でした。

けれど、10年のブランクがあるからか、
こうしてけじめをつけることで、かえって
すっきりし、新しい境地に向かって
羽ばたけるような気がしています。

改めて、こういう機会を与えてもらったことに
感謝。

この10年、子育てをしながら
トレランスを主催しながら
何だか行く先が見えなくてもやもやしていたものに
今度こそ別れを告げて、
2012年は旅立とうと決心しています。

とは言え、舞台の予定が入っているわけでは
ないんですが…(^◇^;)

年を取っても、
自分のやりたい舞台、やりたい役を
できる限りやり続けることを目標にして、
そのために今何ができるか、一生懸命
考えています。

一念発起で、
長野里美、女優道に返り咲きますので
どうぞ皆さん応援してくださいね!

ありがとうございます!(←応援に向けて
あらかじめ感謝。)

1月5日(木)
明けましておめでとうございます。
本年も書き続けて行きたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

今年は舞台の合間なので、ばたばたと
始まった感があります。

が、あんなに騒いでいた2012年じゃないですか。

いつも思いますが、あっという間に「その時」は
来てしまうものですね。

思えば2012年を前にして、あの大震災が起こり、
多くの人々を悲しみと不幸に巻き込んだわけですが、
あれが「アセンション」の始まりであるなら、
準備のしようがないと絶望しかけてしまいます。

言われているのは今年の冬至の頃。
大洪水なのか火山の噴火なのか、もっと人為的な
ものなのか…。

それでも、2012年12月に先駆けて、
2011年10月があやしいという噂もあるにはあったの
です。
幸い、それは免れたようで、ほっとしました。

ひょっとしたら、防いだのは
3・11以降の人々の防災意識なのかもしれないし、
祈りの心なのかもしれません。

いずれにせよ、大変な年に生きているものです。

それでも、昨年末から今年の年頭にかけて
お客様の喝采を浴びることのできる私は、なんて
幸せ者なのだろうと神に感謝せざるを得ません。

あんなふうに、温かい目で見守ってくれる客席は
そうそうあるものではありません。

客席の隅々まで、
「昔好きだった友達に会いに来たんだ」という
雰囲気が染み渡っていて、
出るだけでうれしくなります。

もちろん、楽しめない方や、
初めてで戸惑っている方もいらっしゃるでしょう。
それでも、「解散」だから許してくださっているので
しょう。

そう思うと、20代・30代でやってきたことは
少なくとも無駄ではなかったんだなと思います。

10年たった今になって、
しかも子どもを持ち、役者生活をまだまだ昇華
できていない今の私に、
そんなふうに思わせてくれるプレゼントをくれる
なんて、神さまも粋なはからいではないですか。

おかげで、これからの10年、
腰をすえてやっていこうという気になりました。

一時は仕事もなくて、
「私なんてもう女優じゃない」とまで思いましたが、
今日から死ぬその時まで、女優の道を究めようと
思います。

今年、また「公の園」を再演する運びです。

そして、最後の「第三舞台」、
最後まで務め上げさせていただきます。

本年もどうぞよろしくお願いします。




トップページへ戻る
inserted by FC2 system